浅間山の由来

浅間山は長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村にまたがる活火山です。

標高2,560メートルで、山の形は円錐形をしています。

火山活動にともない生じた特異な地形の状態を「あさ」といい、場所を示す地形語「ま」とで「あさま」となり、活動の活発な火山を人々は「あさま」と呼ぶようになったといいます。

やがて「あさま」に浅間の字があてられて、「せんげん」という読み方にもなったそうです。

数十万年前から浅間山の周辺では火山活動が活発で、噴火と崩壊を繰り返して現在のような姿になっています。

最後に大規模な噴火があったのが1783(天明3)年で、天明噴火と呼ばれています。

噴火や爆発を毎日繰り返し、北関東全域には火山礫や火山灰を降らせ、吾妻火砕流は群馬県側に流下し、密林地帯を埋め尽くしました。

もっとも大きな被害をもたらしたのが鎌原火砕流で、麓の集落で多くの犠牲を出しました。

この大噴火が、天明の大飢饉の原因となります。

噴火の降灰による広範囲の被害と火山灰の滞留による日射量不足で、大凶作となり、東北地方で約10万人の死者をだしたといわれています。

非常に深刻であった天明の大飢饉は、江戸時代の代表的な飢饉のひとつでした。

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上高地の由来

上高地は、長野県西部の飛騨山脈南部に流れる清流・梓川と湖沼の数々の景勝地で、国の文化財に指定されています。

パワースポットとしても知られていて、多くの観光客が訪れます。

梓川に架かる、河童橋と呼ばれる木製の吊り橋は上高地のシンボルのひとつです。

上高地の地名の由来は高地にあることではなく、じつは山間の渓谷の平地を意味するといいます。

梓川上流の谷間が「上口(かみぐち)」や「上口地」と呼ばれていたことから「上河内」「神合地」となり転じて「上高地」となったという説があります。

穂高神社の祭神である穂高見命(ほたかみのみこと)が穂高岳に君臨したことに由来するという説もあります。

穂高見命を祀っているのが穂高神社奥宮で、ここにある明神池は池自体が御神体であるといわれています。

ところで、長野県の中部にかつて安曇村(現・松本市安曇)という村がありました。

安曇村は、自然があまりにも美しい上高地を神の字を用いて表したいという願いから「上高地」から「神河内」への地名変更を申請したことがあります。

結局、この改称は認められなかったそうですが、この地では上高地を神の存在に重ね合わせてつくられた「神河内」や「神降地」の表記があちこちに見られます。

軽井沢のむかし

観光地の軽井沢は高級別荘地でもあり、一流品を扱う店や食の名店も多いですが、かつてはこのように華やかではなく地味なイメージの町だったといいます。

軽井沢の地名の由来についてはいくつかの説があります。

このあたりは標高が高くて冬は長く寒さも厳しく1年の大半がすべてが凍っているということから「凍り沢」となり、それが転じて軽井沢となったという説や、この地域のほとんどの川が上流の小川なので川の水がしばしば枯れてしまったことから「枯れ沢」と呼ばれたのが転じたとする説があります。

また、浅間山の噴火によってできた軽石が転がる土地ということに由来する説や荷物を背負って運ぶことを意味する「かるう」という古語・方言から峠に続く谷間の地名として発生したという説もあります。

江戸時代には宿場町として栄えていましたが、明治時代に入ると宿場は没落し地域は衰退していきます。

土地が痩せていてアワやヒエくらいしか栽培できなかったので、地元の人々の暮らしは恵まれたものではありませんでした。

しかし1885(明治18)に軽井沢に訪れた外国人宣教師が故郷に似たこの地を気に入ると、彼や彼の友人たちは次々に山荘を建て、現在の軽井沢が出来上がったのです。

海がないのに海のつく地名

JR小海線は、長野県小諸駅と山梨県小渕沢駅の78.9キロメートルを結ぶ路線で、八ヶ岳高原線の愛称がつけられています。

JR線でもっとも標高の高い駅「野辺山」(標高1375メートル)を通り、海に接していない県である長野県と山梨県の山の中を走っているのに小海線という名称で、しかも駅名も「佐久海ノ口」「海尻」「小梅」「海瀬」など「海」にちなんだ名前が多いです。

これらの駅名は、地名に由来します。

大昔は八ヶ岳の噴火が盛んで、小海線沿線付近には八ヶ岳の噴火によってできた湖がたくさんあります。

「海」という言葉は古くはいわゆる海だけではなく湖をも表わしていたそうで、「小海」にもかつては湖があったことから、その名前がつけられたと考えられます。

むかしの人びとには、大きな湖は海に近い広さに感じられたのでしょう。

また、887年あるいは888年に起きたとされる八ヶ岳噴火で、深山で千曲川が堰き止められて大きな湖ができたそうです。

その後、湖は決壊し湖底が露出して平地となり、やがて「海ノ口」「海尻」の村ができたのだといいます。

かつては湖の底にあった一帯にできた「海ノ口」「海尻」は、江戸時代には街道が整備されたことによって宿場となっていたようです。

塩を運ぶ道の終着駅

長野県中部に塩尻市という地名があります。

塩という字がつくからには塩に由来する地名でありそうですが、海に面していない長野県が塩とどんな関係があるのでしょうか?

塩は赤穂塩や竹原塩など瀬戸内海産のものが最高級品として日本中に出回っていました。

塩を運ぶ道は塩街道と呼ばれ、南の熊野灘を通って熱田や清水、江戸に運ばれる南塩ルートと、下関を通って日本海側を回る北塩ルートがありました。

海のない長野県では塩を生産することができないため、日本海や太平洋に面していた地域から塩を手に入れていましたが、塩街道の終点だったので「塩尻」と呼ばれるようになったといわれています。

各地を売り歩いてきた塩売りが、この付近まで来ると品切れとなってしまうことから塩尻の名前になったともいわれています。

しかし、塩尻は塩の輸送とは関係がなく、塩尻の地名も塩に由来したものではないとする説もあります。

周辺の地形の道が詰まっていることから、次第に狭くなる地形という意味の「しぼ」という言葉から「しお」になったのではないかと考えられています。

沼や川、沢などに多用される渋地を「しおち」と書いていくうちに「塩」の字が用いられて、渋地のどん詰まり、どん尻で「塩尻」になったという説もあります。

浦島太郎の伝説がある寝覚ノ床

長野県木曽郡にある「寝覚ノ床(ねざめのとこ)」は木曽八景のひとつです。

寝覚ノ床は木曽川のほぼ中央、中山道の上松と須原の間にあり、古くから木曽の名所として知られる景勝地です。

木曽川の激流によって花岡岩が侵食されてできた地質学上貴重とされる地形で、岩盤にはポットホール(岩盤の表面にあいたほぼ円形の穴、甌穴)は日本であまり見られないものです。

また、自然の彫刻といえるような変わった形の岩が多くあり、獅子岩、釜岩、亀岩、烏帽子、象岩などの名前がついています。

この寝覚ノ床という地名は浦島太郎が目を覚まし、晩年を過ごした場所といわれています。

いじめられていた亀を助けた浦島太郎はお礼に竜宮城に招待されますが、地上へ戻ってくると、まわりの風景が変わっていて家族や知人が誰もいないことに気づきます。

旅に出た浦島太郎は木曽の山中にあるこの地へやってきて釣りをして暮らしていましたが、ある日、竜宮を思い出して乙姫からもらった玉手箱を開けてしまいます。

玉手箱からは白い煙が出て、浦島太郎は白髪の老人となってしまいますが、そこで「すべての出来事は夢だったのだ」と目を覚ましました。

このことから、寝覚ノ床の地名となったといいます。